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粟島全体を含み、東岸に内浦、西岸に釜谷の集落がある。「粟生島」と記されることもあり「あおしま」とも呼ばれる。万葉集巻12に「波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢わぬもの故我に寄そる児ら」と詠まれる。「粟島」を当地とする説があるが異論もある。義経記巻7に「青島の北を見給えば、白雲の山腰を離れて、宙に吹かれ出て来る」云々と佐渡へ吹き寄せられたことがみえる。
近世は始め村上藩領、寛永19年(1642)幕府領、のち上野館林藩預所、出羽庄内藩預所等を経て宝暦3年(1753)以降米沢藩預所。
宝永元年(1704)頃の村上十五万石御領内諸書留帳によれば、家数97、人数598(うち女291)、商船3、猟船65とある。また化政期頃の粟島図によれば、家数は前浜78、釜谷31、野馬5、60とある。野馬については、源義経が奥州へ落ち延びる途中、馬下(まおろし)(村上市)まで来たが、難所のため馬を乗り捨てた。この馬が粟島に泳ぎ着いたのが始まりとの伝説がある。
5月から7月に行われる鯛漁の大謀網は漁業組合が経営し、網元・網子制度はなく島の組合員宅から一人参加し、大謀網から得られる収入は頭数で割って均等に配分される。
オオミズナギドリとウミウの繁殖地は国指定天然記念物。
曹洞宗観音(かんのん)寺がある。


訪問記録
- 2014/07/07:デンスケ・嫁